八田 與一

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八田 與一

八田 與一 はった よいち (水利技術者/正四位勲三等叙位)

1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現在は金沢市今町)に生まれる。

石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。

 

台湾では初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し嘉義市・台南市・高雄市など、各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。

八田は28歳で、当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任されたがこれを成功させ、高い評価を受けた。

 

1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。

嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。

 

そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。

事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。

 

このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。

 

そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。

この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。

 

1939年(昭和14年)、八田は台湾総督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事した。また対岸の福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を受けるなどしている。

太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に客船大洋丸に乗船した八田は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したがその途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦グレナディアーの雷撃で撃沈され、八田も巻き込まれて死亡した。

正四位勲三等叙位叙勲。

日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。

八田

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